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歴史から学ぶモノとは

元寇はなぜおきたのか

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元寇はなぜおきたのか


8代執権 北条時宗
13世紀 チンギスハン モンゴル帝国
5代皇帝 フビライ・ハン

1268年 文永5年1月 国書が届く
国交を求めているようで属国になれという内容

何故国交を結びたかったのか、その目的は。
南宋の攻略と、日本の火薬の材料の硫黄。

大宰府を抑え、硫黄を確保しようとした。それと同時に、南宋への
硫黄の輸出を停止させる。

朝廷は、あわて返事を書かなかった。
高麗に1000の船を作らせると同時に、
文永6年2月(1269年)二度目の使者が訪れる
が対馬で上陸を拒み追い返す。

1269年9月、3度目の使者が訪れる。
国書を届ける。このとき、さんざん脅されたが、
無視をして返事をしなかった。

経験をしたことのない事態で、南宋が負けるとは思っていなかった。

朝廷が原案を作成したが、幕府が握りつぶした。

このころ、高麗から国書が届いていたが、内容が二転三転して、
朝廷は判断に困っていた。

時宗は徹底抗戦の構えだった。
九州に異国警国番役をおいて、モンゴルの襲撃に備えようとした。

文永11年10月(1274年)、900槽が攻めてきた。
文永の役
モンゴル軍2万6千VS幕府軍3000人

モンゴルの最新兵器
・てっぽう
・金属製のドラで馬が前に進まなくなった
・雨のような矢(毒も塗ってあった)。連射しやすかった。
・集団で襲いかかってきた。
・モンゴル鎧兜が動きやすかった

一夜明けた、10月20日(現在では、11月25日)に、モンゴルが襲ってきた。。
神風が吹いたと言われていたが、最初はそうではなく、冬の食糧が確保できないために、
撤退したのが真相らしい。10月24日この時、大宰府を落とすことが出来ずに食糧確保が出来ず、このままでは冬が越せないと判断し27日に、やむなく撤退したのが真相らしい。しかし、モンゴルは日本を攻略するのは、やすしと思い。次の攻略で決することを決めたと思われる。

1279年弘安2年に、南宋も滅ぼした、モンゴル帝国は再び日本に攻めてきた。
日本の金、水銀、米、真珠を狙っていたと思われる。

今度は、十四万人で攻めてこようとしていた。
それと同時に日本への使者5人を送った。今度は、徹底抗戦の意思を示し時宗は使者を処刑した。

海岸に20kmの長さの、「石築地」と言われる、襲撃に備えた石垣をつくっていた。

高麗からの4万の東路軍と宋からの江南軍10万。
弘安4年5月3日(1281年)弘安の役
しかし、この時も日本を救った偶然があった、江南軍の到着が2か月も予定よりも遅れたのだ。もし遅れてなかったら、台風が来る前に日本は攻められていた可能性があり。到底、勝てなかっただろうといわれています。
弘安4年6月30に(1281年)モンゴル軍を大嵐が襲い、20~40隻の船が沈み、嵐で動揺していたモンゴル軍を嵐が静まってから、5日志賀島、7日鷹島で日本軍がモンゴル船を襲った。

日本は、自然と地の利を生かして元寇を打ち破ったのだ。これが、その後神風として、時の権力者に利用されてきたのだ。

その時の沈没した船からは、高麗のモノや宋の陶器、モンゴルなどのものが見つかっている。
モンゴル帝国は、多民族国家で言葉も通じない者同士や、指揮系統が一度混乱すると収拾がつかなかったことが想像される。

 

 

 

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