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歴史から学ぶモノとは

道鏡か否か?愛に揺れた女帝

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道鏡か否か?愛に揺れた女帝


宗教というものは、民衆の心のよりどころ、歴史上、時の権力者もこれを利用してきた。
しかし、宗教は破壊の原動力にもなりうることは、歴史が証明している。
日本でも起こりうる状況があった。いや、朝廷が宗教にのみ込まれるかもしれない事態があった。

現代日本人にも、そのことを知っておいてもらいたい。
否、その危機は常に私たちのそばにあるのかもしれない。盲目的に信じるのは怖いとい言うことである。

宇佐八幡神託事件
称徳天皇(718-770)
道鏡

東大寺 仏像743年(天平15年)大仏造立の詔
干ばつの飢饉 、貴族の反乱、聖武天皇は仏教で鎮護国家を理想とした
749年娘、安倍内親王に譲位、称徳天皇(孝謙天皇)である。

当時は、嫡子相続が重視された。女性天皇=独身が条件

三宝とは・・・仏法僧
①仏教の興隆
②皇位の継承
を重視することを聖武天皇は、娘に伝えた。

孝謙天皇は、中継ぎであるとう見方から貴族は冷たかった。

756年聖武上皇がなくなると、皇位の陰謀が・・・。
藤原仲麻呂が、大炊王に天皇を即位させようとした。
天平宝字2年(758)大炊王(淳仁天皇)に譲位、孝謙上皇に。


そして、藤原仲麻呂は傀儡政権を行う。
開基勝宝(貨幣)日本初の金貨を鋳造

やがて、孝謙上皇は病に倒れ、このときに道鏡と出会う。

道鏡は、まじないで孝謙上皇の病を治したと伝えられている。

当時は、仏教は化学、医学さまざまな分野の知識で活躍していた。

藤原仲麻呂に対する不信感、心細くなったところに道鏡が現われる。
心の支えとなる。心理的にしがみつき(この人がいないと困る)状況になっていく。

762年出家し、「政は通常の小さいことは淳仁天皇が行え、国家の大事と賞罰は私が行う」
と宣言した。

藤原仲麻呂はこれに対して、764年武力蜂起にでる。
しかし、戦いに敗れ首をはねられる。

764年称徳天皇としてふたたび即位する。
①仏教の興隆
②皇位の継承
を果たそうとする。


本来は、仏教は政治の道具として考えられるものを、聖武天皇は
仏教と世俗の政治を同じ次元に乗せようとした。怖いのは、仏教至上主義を作ろうとした。


仏法と王法は車の両輪。しかし、この時代仏法の車輪が大きくなり過ぎている。

そして、道鏡とともに政治に取り組んでいった。
766年道鏡に法王の位を授ける。
実の弟が大納言に出世し、親族もとりたてられた。
天皇に並ぶ、権威を与えた。

769年宇佐八幡宮から称徳天皇に神託が、「道鏡を皇位につければ天下は太平となるであろう」と。

称徳天皇は迷った。
貴族も道鏡に反感をもっていた。

「道鏡が権力を握ってからはさかんに土木工事を行い寺院を建立したため国家財政は窮乏した」と記録がある

称徳天皇は、優秀な貴族も昇格させている。藤原永手や吉備真備など

道鏡には、子供がいなかった。皇位につけても争いが起こることは容易に想像できた。

和気清麻呂を宇佐八幡宮に使いを出し、神の意志を確認させる。
「我が国が始まって以来、君臣の別は定まっている。天皇の位には皇統をたてよ、無道の人は排除すべし」と新たな神託が出る。

上徳天皇は道鏡を皇位につけない判断を下す。

しかし、道鏡を追放せよの神託に激しい怒りを見せる。そして、和気清麻呂を追放し。それに、加担した貴族の処分である。

「清麻呂とともに謀をなす者がいることはわかっているがこれを許す」と群臣に伝える。


もし、道鏡を皇位に就けていたら。日本の歴史は大きく変わっていたかも。ただし、称徳天皇は、最終的に現実的な判断をすることができた。

称徳天皇亡きあと、時代は変わり、仏教は京の都から遠ざけられた。

この事件で、宗教の怖さを政治的にわかる事件であった。
その後、天体と神と天皇を一体化するような王権を桓武天皇がつくりあげた。
それが、今の天皇制の基礎となったのではないかと考えられている。

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