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今も沖縄の海の底に眠るゼロ戦
体当たり攻撃、特攻。100%死ぬ攻撃。二十歳前後の青年。
今生き残っている特攻隊員。
「厳粛な気持ち」「こんなことをしなくてはいけないと思ったら、国がかわいそうだと思った」
昭和19年10月に始まった特攻、終戦までに急激に拡大していった。何故なのか。
本土決戦の作戦の中心は特攻だった。それは、戦闘機だけではなかった。
海上からも、海の底からも作戦が練られた。
作戦参謀の資料から、命中率は1/6。実際には、架空に架空を積み重ねてどんどん現実から遊離したものになっていった。続けること自体が自己目的になっていった。
特攻を終戦目的に利用しようとした軍首脳の政治的思惑があった。その為に、多くの若者の命が使われた。特攻をもって、妥協のテーブルに相手に条件付きでつかせようとした。
生きて帰ることを望んではならなかった若者たち。常軌を逸した作戦に歯止めがかからなかったのか。
その拡大の軌跡をたどってみる。
ラジオから特攻に行く青年の声が流れていた。その内容は、名誉あることとして喜びの声であった。
19年10月フィリピンで初めて行われた。当時、アメリカのレイテ島上陸・20万人部隊に対抗するだけの戦力がもう残っていなかった。
そして、特攻が予想をはるかに超えた戦果を得ることになる。戦闘機6機のうち、5隻が空母に撃墜。うち、一隻を撃沈させる。隊員たちの命との引き換えにあげた大戦果だった。
これを受けて、現地での海軍は体当たり攻撃の継続を決定した。
特攻に行く日は、朗らかに喜んだ様子だった搭乗員も、前の夜は目をギラギラさせてほとんど一睡もしてないような状態だった。周りからは、その心情を見てとることは本人にしかわからなかった。
日本国内では、特攻は熱狂的に迎えられた。そして、陸軍も海軍の戦果に負けまいと、19年11月に特攻を開始する。
フィリピンで500機以上の特攻を出撃させた。
日本側は、232席の艦船を撃沈・撃破と発表。しかし、アメリカ側の記録は58隻にとどまっている。その理由は、何なのか。
当時は、特攻機の護衛機がその戦果を確認していた。しかし、雲に隠れて良く見えなかったり、同僚の死を成功と結びつける報告がされていた。失敗したとは言えなかった。無駄死に、何のための特攻。思いやりの心からだった。
軍の上層部によって誇張されることもあった。この頃、作戦はこれしかなかった。それほど、日本の戦力は無いに等しい状態だった。
10機で10艦を撃破と大本営に報告している。実際は、2艦でしかなかった。それも、撃破はしていない。
今も生き残る将校「上司として、ああおれの部下は皆よくやってくれた」というふうに思いたい。だから、過大報告になる。遺族に対しても「お宅の息子さんよくやってくれた」と言いたかった。しかし、今も自責の念がたえることはないという。
実態とはかけえ離れた報告がされていく特攻。そして、フィリピンの日本軍は壊滅状態に陥っていく。
政府首脳はもはや戦争遂行は不可能と考えていた。しかし、アメリカの沖縄上陸を前に戦争継続を選択する。若手軍人からの突き上げに対して対抗できなかった。
昭和20年3月1日 陸海合同で沖縄での戦闘の作戦をまとまる。
その中身は、特攻が中心。
その狙いは、終戦への動機をつかむ。敵への手痛い一撃で。一撃講和に持ち込もうとする。
一撃講和の目的は、日本国家のメンツがあった。一応建前上負けたことがない国が初めて負けてしまう時に全面降伏ではすべてを失ってしまうかもしれない。
このまま無策のまま降伏してしまうと自分たちが崩壊してしまうことを一番恐れていた。
一撃講和は主戦派への支持を広げていった。中堅将校の間には和平は弱腰であるという反発があった。これも、終戦を遅らせる原因にもなった。軍令部の中に強硬な少壮士官がたくさんいた、これを抑えるにはどうしても強硬論を言わざるをえない状況があった。
自分が部下を統御するべき立場におりながら部下に統御されているということだった。
一撃講和は昭和天皇も支持していた。
沖縄での特攻に期待をよせいていた、飛行機も潜水艦もみんなつぎ込んで特攻をやるんだと。
史上類をみない戦いが始まった。
「全軍特攻」
1500の艦隊、50万人の戦闘員が、沖縄に上陸。激しい地上戦が行われる。
九州や台湾から次々に特攻が出撃。しかし、隊員の多くが実践での経験がまったくなく、訓練も不十分だった。ランクでいうとDランク(一番下)が4割を占めていた。
実践には出してはならないランクだった。
沖縄戦は、最初の1週間だけで500機以上が出撃していった。
生き残りの特攻隊員「悲しくてしかたがなかった」毎日友が死んでいく、明日には死ぬのが分かっていた「苦しくて仕方がなかった」「なんで死ななきゃならないのかなって」「敵艦を沈めても日本は勝利するんだろうか、とても疑問だった」
様々の特攻兵器が開発されていった。
特攻艇「震洋」ベニヤ板で作られ、敵の銃弾を浴びただけで沈没した。
翼と操縦席だけの人間爆弾「桜花」、敵の上空まで運ばれ切り離す。プロペラもエンジンもついていない人間爆弾。
しかし、これらは成功率はまったくといっていいほど戦果が上がっていない。桜花の重みで身動きが出来ない戦闘機はアメリカにとって格好の標的だった。
4月29日沖縄戦での特攻の戦果ありと報告されている。しかし、実際は一撃講和になるような戦果はなかった。この頃、アメリカはレーダーや対空砲火の精度をあげ、戦闘機をことごとく撃ち落としていた。ここに沖縄戦は本土決戦へと移る。
20年6月8日 御前会議
ここでも、まだ特攻を続けようとした海軍の主張がとおる。
本土決戦の決定である。
練習機2300機をかき集めた。まったく役に立たないことがわかっていた。作戦は、結果に対して分析を行っている。続けることが自己目的になっていた。
九州上陸で、敵兵力を阻止でくるのは34%と作戦立案ででたが、50%ととしている。
そして、日本は焦土と化していった。そして、8月6日広島原爆、9日長崎原爆と日本は未曽有の焦土となってしまった。
特攻で4500人の搭乗員がなくなった。凶器なのか職務に忠実だったのか。
狂った歴史は必ずしも、人が狂わなくても起こるということ。
宗教というものは、民衆の心のよりどころ、歴史上、時の権力者もこれを利用してきた。
しかし、宗教は破壊の原動力にもなりうることは、歴史が証明している。
日本でも起こりうる状況があった。いや、朝廷が宗教にのみ込まれるかもしれない事態があった。
現代日本人にも、そのことを知っておいてもらいたい。
否、その危機は常に私たちのそばにあるのかもしれない。盲目的に信じるのは怖いとい言うことである。
宇佐八幡神託事件
称徳天皇(718-770)
道鏡
東大寺 仏像743年(天平15年)大仏造立の詔
干ばつの飢饉 、貴族の反乱、聖武天皇は仏教で鎮護国家を理想とした
749年娘、安倍内親王に譲位、称徳天皇(孝謙天皇)である。
当時は、嫡子相続が重視された。女性天皇=独身が条件
三宝とは・・・仏法僧
①仏教の興隆
②皇位の継承
を重視することを聖武天皇は、娘に伝えた。
孝謙天皇は、中継ぎであるとう見方から貴族は冷たかった。
756年聖武上皇がなくなると、皇位の陰謀が・・・。
藤原仲麻呂が、大炊王に天皇を即位させようとした。
天平宝字2年(758)大炊王(淳仁天皇)に譲位、孝謙上皇に。
そして、藤原仲麻呂は傀儡政権を行う。
開基勝宝(貨幣)日本初の金貨を鋳造
やがて、孝謙上皇は病に倒れ、このときに道鏡と出会う。
道鏡は、まじないで孝謙上皇の病を治したと伝えられている。
当時は、仏教は化学、医学さまざまな分野の知識で活躍していた。
藤原仲麻呂に対する不信感、心細くなったところに道鏡が現われる。
心の支えとなる。心理的にしがみつき(この人がいないと困る)状況になっていく。
762年出家し、「政は通常の小さいことは淳仁天皇が行え、国家の大事と賞罰は私が行う」
と宣言した。
藤原仲麻呂はこれに対して、764年武力蜂起にでる。
しかし、戦いに敗れ首をはねられる。
764年称徳天皇としてふたたび即位する。
①仏教の興隆
②皇位の継承
を果たそうとする。
本来は、仏教は政治の道具として考えられるものを、聖武天皇は
仏教と世俗の政治を同じ次元に乗せようとした。怖いのは、仏教至上主義を作ろうとした。
仏法と王法は車の両輪。しかし、この時代仏法の車輪が大きくなり過ぎている。
そして、道鏡とともに政治に取り組んでいった。
766年道鏡に法王の位を授ける。
実の弟が大納言に出世し、親族もとりたてられた。
天皇に並ぶ、権威を与えた。
769年宇佐八幡宮から称徳天皇に神託が、「道鏡を皇位につければ天下は太平となるであろう」と。
称徳天皇は迷った。
貴族も道鏡に反感をもっていた。
「道鏡が権力を握ってからはさかんに土木工事を行い寺院を建立したため国家財政は窮乏した」と記録がある
称徳天皇は、優秀な貴族も昇格させている。藤原永手や吉備真備など
道鏡には、子供がいなかった。皇位につけても争いが起こることは容易に想像できた。
和気清麻呂を宇佐八幡宮に使いを出し、神の意志を確認させる。
「我が国が始まって以来、君臣の別は定まっている。天皇の位には皇統をたてよ、無道の人は排除すべし」と新たな神託が出る。
上徳天皇は道鏡を皇位につけない判断を下す。
しかし、道鏡を追放せよの神託に激しい怒りを見せる。そして、和気清麻呂を追放し。それに、加担した貴族の処分である。
「清麻呂とともに謀をなす者がいることはわかっているがこれを許す」と群臣に伝える。
もし、道鏡を皇位に就けていたら。日本の歴史は大きく変わっていたかも。ただし、称徳天皇は、最終的に現実的な判断をすることができた。
称徳天皇亡きあと、時代は変わり、仏教は京の都から遠ざけられた。
この事件で、宗教の怖さを政治的にわかる事件であった。
その後、天体と神と天皇を一体化するような王権を桓武天皇がつくりあげた。
それが、今の天皇制の基礎となったのではないかと考えられている。
長州vs会津
長州藩 37万石 志 藩租毛利元就
会津藩 23万石 忠 藩租保科正之(家光の弟)
何故戦争は起きるのか、何故戦争は避けられないのか
会津藩
「什の掟」 思考を停止させるが、精神的に美しい。理屈ではない
その一つに、「やってはならむ、やらねばならぬ、ならぬことはならぬものです」
全てにおいて、思考停止ではないが、年上の人には逆らってはならぬという形で伝わっている風土を生み出している。
日新館が「什の掟」として伝わっている
家光は、保科正之に目をかけて、その才能を見出した。
正之は、会津藩家訓の15条を創った。
その一条には、「幕府に忠誠を尽くし、もし幕府に忠誠を尽くさない事柄については従う必要はない」と
長州は、毎年「幕府追討はいかがでしょうか」「まだはやかろう」という。正月の儀式があったと言われている。幕府への反抗心が、長州を作り上げて行った。
120万石から、37万石へ。
山口の萩市には、江戸幕府への対策が今も残っている。
江戸幕府は、長州への圧力を強めていった。なんだかんだと、お金を使わせた。
そのことにより、借金が膨れ上がり。家臣をリストラするしかなかった。
しかし、その結果、武士が農民になり、私塾が増える結果となった。
それが、長州藩の基礎となっていく。
会津藩も長州藩共の、教育立国であったが、内容が全く違っていた。
会津藩は、太平の世で培った教育であり、長州藩は厳しい中で生き残るための教育であった。
長州では、戦国時代は続いていた。
会津藩の「什の掟」は、道徳を超えた力がある。しかし、思考停止に陥りやすいので注意が必要である。人間関係の信頼は理屈ではないところで成り立っている。
会津は、「なになにをしてはならない」長州は「何かをしなくてはいけない」
価値観がまったく違う集団が、歴史を作っていた。
両藩には、中興の祖がいた。
会津藩は、家老の田中玄宰(たなかはるなか)1748~1808天明の大飢饉が襲う。
2000人の餓死者。
地場産業の立て直し。会津漆器、酒造り、朝鮮ニンジンは、養蚕を藩主導で奨励。
経済復興の足がかりを。
武士の秩序も乱れていた、日新館を設立して教育に力を入れた。
文武両道の教えをすすめた。忠義と礼節を重んじた。ヒトの心を改革した。
長州は、7代藩主毛利重就(もうりしげたか)1725~1789
新たな税収を得るため、4万石の新田を開拓。
また、「御国政御再興記」に残る、特別会計として借金には返済しない帳簿を作成。
資産運用、「撫育方」を設置。新たな塩田の開発。36万石の塩を産出。
それ以外に、ろうや紙を産出した。「三白」と言われる。
また、下関の港に「越荷方」を設置し、倉庫業や金融貸付を行うことで莫大な利益をえるようになった。
「撫育方」は、今でいう総合商社としての役割を果たしていった。
他藩を圧倒していく財力を身につけて行った。
この財力が、維新の原動力になっていった。「撫育方」=社内ベンチャーだった
会津藩の武士の子は、九九ができなかった、お金やいやしいものだと言う考え方の風土がどこか残っていた。教育の中身が、精神的なことに偏っていた。
会津は、高付加価値商品の開発を行ったが、長州は生活必需品の開発だった。
会津は、優等生レベル。長州は、実利主義
幕末で、この両藩は激しく対立する。
会津は幕府を守ろうとするが、長州は日本を守ろうとする。
何故そうなったか、会津は「什の掟」によって、利なくとも京都守護職を引きうける。
長州は、攘夷に単独で決行。その礎となったのが、松下村塾での若者たちであった。
しかし、結果長州は欧米列国の強さを身にしみて感じることになる。
そして、禁門の変が勃発。京都が焼け野原一歩手前まで。
朝廷も、右往左往していた。孝明天皇は二面性があった。
朝敵となった長州
長州3千vs幕府15万
長州全藩一致で、商人も農民も戦争に参加。幕府を打ち破る。
慶応3年(1867年)10月14日大政奉還
新しい政治の形を、合議制に徳川を入れないことに決する。
1867年12月9日王政復古の大号令
慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見の戦い。
旧幕府軍が敗退
慶応4年(1868)4月11日 江戸城無血開城
しかし、会津藩は闘い続ける。
人はほおっておけば戦争をしてしまう。
共通の難題を与えると敵同士でも協力をする。それが、薩摩と長州だった。
会津と長州は、価値観の戦争
日新小学校では、今も「什の掟」を朗読している学校が
萩では、吉田松陰の言葉を、明倫小学校では朗読されている。
8代執権 北条時宗
13世紀 チンギスハン モンゴル帝国
5代皇帝 フビライ・ハン
1268年 文永5年1月 国書が届く
国交を求めているようで属国になれという内容
何故国交を結びたかったのか、その目的は。
南宋の攻略と、日本の火薬の材料の硫黄。
大宰府を抑え、硫黄を確保しようとした。それと同時に、南宋への
硫黄の輸出を停止させる。
朝廷は、あわて返事を書かなかった。
高麗に1000の船を作らせると同時に、
文永6年2月(1269年)二度目の使者が訪れる
が対馬で上陸を拒み追い返す。
1269年9月、3度目の使者が訪れる。
国書を届ける。このとき、さんざん脅されたが、
無視をして返事をしなかった。
経験をしたことのない事態で、南宋が負けるとは思っていなかった。
朝廷が原案を作成したが、幕府が握りつぶした。
このころ、高麗から国書が届いていたが、内容が二転三転して、
朝廷は判断に困っていた。
時宗は徹底抗戦の構えだった。
九州に異国警国番役をおいて、モンゴルの襲撃に備えようとした。
文永11年10月(1274年)、900槽が攻めてきた。
文永の役
モンゴル軍2万6千VS幕府軍3000人
モンゴルの最新兵器
・てっぽう
・金属製のドラで馬が前に進まなくなった
・雨のような矢(毒も塗ってあった)。連射しやすかった。
・集団で襲いかかってきた。
・モンゴル鎧兜が動きやすかった
一夜明けた、10月20日(現在では、11月25日)に、モンゴルが襲ってきた。。
神風が吹いたと言われていたが、最初はそうではなく、冬の食糧が確保できないために、
撤退したのが真相らしい。10月24日この時、大宰府を落とすことが出来ずに食糧確保が出来ず、このままでは冬が越せないと判断し27日に、やむなく撤退したのが真相らしい。しかし、モンゴルは日本を攻略するのは、やすしと思い。次の攻略で決することを決めたと思われる。
1279年弘安2年に、南宋も滅ぼした、モンゴル帝国は再び日本に攻めてきた。
日本の金、水銀、米、真珠を狙っていたと思われる。
今度は、十四万人で攻めてこようとしていた。
それと同時に日本への使者5人を送った。今度は、徹底抗戦の意思を示し時宗は使者を処刑した。
海岸に20kmの長さの、「石築地」と言われる、襲撃に備えた石垣をつくっていた。
高麗からの4万の東路軍と宋からの江南軍10万。
弘安4年5月3日(1281年)弘安の役
しかし、この時も日本を救った偶然があった、江南軍の到着が2か月も予定よりも遅れたのだ。もし遅れてなかったら、台風が来る前に日本は攻められていた可能性があり。到底、勝てなかっただろうといわれています。
弘安4年6月30に(1281年)モンゴル軍を大嵐が襲い、20~40隻の船が沈み、嵐で動揺していたモンゴル軍を嵐が静まってから、5日志賀島、7日鷹島で日本軍がモンゴル船を襲った。
日本は、自然と地の利を生かして元寇を打ち破ったのだ。これが、その後神風として、時の権力者に利用されてきたのだ。
その時の沈没した船からは、高麗のモノや宋の陶器、モンゴルなどのものが見つかっている。
モンゴル帝国は、多民族国家で言葉も通じない者同士や、指揮系統が一度混乱すると収拾がつかなかったことが想像される。
430年前 織田信長古都京都に残したもの
本能寺の変の真実
足利幕府を終わらせた信長、しかし、等寺院 足利将軍の菩提寺
は大切に保護した。その理由は、
織田信長を天下統一へと導いた13代将軍足利義輝
将軍の復権を目指したが、反乱に合い討たれる。
生前信長に合っている。信長が敬愛し、尊敬する将軍だった。
寺町通りの阿弥陀寺
本能寺の変で亡くなったとされるが、遺体はこの寺に残っていると
伝わっている。
歴史書では、信長の亡骸は行方不明となっているが・・・。
信長と家臣100余命の法要が今も行われている
祇園 正伝永源院
11番目の信長の弟 有楽斎
利休の弟子、秀吉、家康と使える
江戸に住んでいた場所が、今の有楽町
信長から受け継いだもの
鳴子鼓 国宝
健仁寺最古の禅寺
雷神風神屏風
枯山水、ここに有楽斎が信長のために残した供養塔
養源院
淀の方が建立したお寺、信長の妹お市の方の供養塔